「浄土真宗ゾーエー派の教理問答・第零版alpha00」を公開しました

5月22日のエントリーですでにお知らせしておりますように、弊会は現在、設立十一周年を記念する事業といたしまして、「ゾーエー派」(Zoeha)という宗教の布教を計画いたしております*1。これは、「浄土真宗」(Jodo Shinshu)と総称される、本願寺派大谷派、高田派、仏光寺派などの宗派群に新たに加わることになる宗派です。

ゾーエー派と、浄土真宗の他の宗派との最大の相違点は、阿弥陀はいかなる存在者であると考えるか、というところにあります。ゾーエー派においては、阿弥陀というのは、「ゾーエー」と呼ばれる命の集合体であると考えられています。すべての衆生は、誕生した時点では二種類の命を持っています。一つは「ビオス」と呼ばれる肉体的な命で、もう一つは「ゾーエー」と呼ばれる霊的な命です。衆生が肉体的に死亡したとき、ビオスの活動は終了しますが、ゾーエーはそののちも活動を続けます。阿弥陀は、肉体的に死亡した衆生のゾーエーを収集して、それを自分の一部分にします。ゾーエー派においては、「衆生が極楽に往生する」というのは、ゾーエーが阿弥陀の一部分になることだと考えられています。

5月22日のエントリーにも書かれておりますように、ゾーエー派においては、「念仏」という言葉は「生きること」を意味していると考えられています。阿弥陀は、いかなる衆生であっても、その肉体が死亡したのち、そのゾーエーを自分の一部分にします。ですから、ゾーエー派においては、阿弥陀の名号を唱えることは、衆生が極楽に往生するために必要なことではありません。そのために必要なことは、ただ単に生きることだけです。

浄土真宗においては、極楽に往生した衆生が、再び穢土に戻って、まだ往生していない衆生に対して極楽への往生という功徳を与えることを、「還相廻向」(げんそうえこう)と呼びます。還相廻向は、ゾーエー派の教義にも含まれています。しかし、ゾーエー派における還相廻向は、浄土真宗の他の宗派とは少し異なっています。ゾーエー派においては、まだ往生していない衆生に対して「アタラクシア」と呼ばれる功徳を阿弥陀が与えることを、「還相廻向」と呼びます。

「アタラクシア」というのは、煩悩を持たない阿弥陀によって幸福と考えられているもののことです。幸福という概念を持っている衆生は人間だけですが、まだ往生していない人間は、アタラクシアを幸福として認識することができません。その理由は、まだ往生していない人間は煩悩を持っていますので、煩悩を満足させることによって得られるもの以外の幸福を、幸福として認識することができないからです。

まだ往生していない人間は、アタラクシアを幸福として認識することができないのですが、しかし、それを滋味として味わう、ということは可能です。衆生は、そのビオスの本性のままに生きているとき、阿弥陀から与えられたアタラクシアを、滋味として味わうことができます。人間の場合、そのビオスの本性は、「思考するものである」ということです。したがって、人間は、思考することによって、アタラクシアを滋味として味わうことができます。その場合の滋味の強弱は、思考の「深さ」に比例します。思考の深さが深ければ深いほど、味わうことのできる滋味は濃厚なものとなります。

弊会は本日、浄土真宗ゾーエー派について解説する、「浄土真宗ゾーエー派の教理問答」という経典を公開しました。ただし、この経典は、現在はまだアルファ版です。今後も改良を進めて参る所存でございますので、ぜひ皆様よりご意見を賜りたいと願っております。またご意見のみならず、誤字脱字につきましても、お気づきの方がいらっしゃいましたらご指摘くださいますようお願い申し上げます。

*1:5月22日のエントリーでは、ゾーエー派の英語名をZoe-haと表記していましたが、ハイフンを除去して、Zoehaとすることにいたしました。