信者が存在しない宗教にも存在する価値がある

統合失調症だと思われたくない教祖は、信者を増やしたいと願わなければいい」という我々の主張を聞いて、「信者が存在しない宗教に存在する価値があるのか」と疑問に思った人がいるかもしれません。確かに、多くの宗教には、それを信仰する信者が存在しています。例外は、空飛ぶスパゲッティ・モンスター教や、我々が布教している共存型一神教など、きわめて少数のものしか存在しません。宗教が存在する価値は信者によってそれが信仰されることによってのみ生じると考える人が大多数だとしても不思議ではありません。しかしそれは、いずれは消え去るであろう前時代的な宗教観です。これからは、「信者が存在しない宗教にも存在する価値がある」という宗教観が常識となるであろうと我々は予想しています。

すでに述べたように、人間による創作物であるという点において、宗教は小説と同列の存在です。小説を読んで、それが現実に起きたことだと思う人はいませんが、それでもなお小説には存在する価値があります。小説と同じように宗教も、これからは、それが人間による創作物であるという認識の下で楽しまれることになるであろうと我々は予想しています。そして事実、経典を読んだり祭礼に参加したりすることは、たとえその宗教の信者ではなくても十分に楽しい行為です。

日本の人口に占めるキリスト教の信者の比率は1%弱と言われています。それにもかかわらず、キリストの誕生を祝ったり、牧師や神父が司式する結婚式を挙行したり、『ふしぎなキリスト教』のような入門書を読んだりする日本人は少なくありません。日本人の多くは、「宗教は、たとえ信じなくても楽しむことができる」ということに、すでに目覚めているのです。宮内春樹さんが創設した聖久律法会に関しても、その信者たちの多くは、彼がアッラーフから受けた啓示を本当に信じているわけではなく、信者を演じるある種のゲームに参加しているだけではないかと我々は疑っています。