統合失調症だという診断を下されない教祖になることは可能である

「教祖に対する統合失調症の診断は誤診である」という我々の主張に対して、教祖の卵たちの多くはおそらく次のように反論するでしょう。「たとえそれが誤診だとしても、統合失調症だと診断されるならば同じことだ」と。そのような反論に対して、我々は次のように反論したいと思います。「統合失調症だという診断を下されない教祖になることは可能である」と。

すべての宗教は、人間による創作物です。その点において、宗教は小説と同列の存在です。宗教の創作者である教祖も、小説の創作者である小説家も、自身が創作したものが虚構であることを知っています。しかし、教祖と小説家との間には大きな相違点があります。それは、多くの場合、前者は自身が創作したものが虚構であることを公言しないのに対して、後者は自身が創作したものが虚構であることを公言するという点です。

自身が創作したものが虚構であると公言する教祖がほとんどいない理由は、そのような教祖は、自身が布教する宗教をいかなる人間にも信じさせることができないからです。もしも教祖が、自身が創作した宗教を誰かに信じさせたいと思うならば、彼は、その宗教は自身が創作したものではなく、自身に与えられた真理であると主張する必要があります。教祖の多くが、自身の妄想が現実だと思っている人物を演技するのは、自身が創作した宗教の信者を増やしたいと願っているからに他なりません。

宮内春樹さんは統合失調症ではありません。同様に、イエスも釈迦もムハンマド統合失調症ではありません。しかし、自身が創作した宗教の信者を増やしたいと願う教祖は、必然的に自身の妄想が現実だと思っている人物を演技することになります。そのような教祖が精神科医の前でも演技を続けたならば、統合失調症であるという診断が下されることは不可避です。

自身が創作した宗教の信者を増やしたいと願うことは、教祖であるための必要条件ではありません。言い換えれば、自身が創作した宗教の信者を増やしたいと願わない教祖が存在することは可能だということです。そして、自身が創作した宗教の信者を増やしたいと願わない教祖は、自身の妄想が現実だと思っている人物を演技する必要がありませんので、統合失調症であるという診断を下されることもありません。ですから、教祖として名乗りを上げたいけれども統合失調症だとは思われたくないという人は、自身が創作した宗教の信者を増やしたいと願わず、自身の妄想が現実だと思っている人物の演技をしなければいいのです。